上迫城(日野町)は東西の丘にあった、の巻
2020年12月27日
下迫城の次は上迫城へ。
読みは「かみはざま」。
儀俄氏の城だと言われる
蒲生氏と祖は同じだとか?
後に甲賀郡の儀峨に本拠を移した。
なので、現在の遺構は後に蒲生氏が改変したかも?
下迫城から南へ徒歩約20分。
我が輩は歩かずに菖蒲谷橋の横に駐車した。
遺構は下迫集落の南の菖蒲谷(しょうぶたん)を挟んだ東西の丘の上にある。
谷を挟んで2つの城があるのは甲賀郡の城跡によく見られる形ですね。
東城(曲輪②)と谷を挟んで
西城(曲輪①)がある
↑勝手に名付けた(笑)
まずは「西城(曲輪①)」
民家の横から坂道を登る
畑への坂道です
丘の上は耕作地になってます
ふりかえって見下ろす
↑左方向に段曲輪があるが、
耕作地になってるので本来の形は不明。
↑曲輪①主郭内部も綺麗な耕作地になってる。
耕作地の南端は
一直線の土塁がある。
土塁の上も藪。
土塁の背後は
大きな堀切に。
堀切の南側は金網の柵があるので堀切の反対側へは行けない
↑東側の仕切り土塁
堀底を移動する
向こうに中央の土橋が見えます
土橋を横切ってさらに西の端へ向かうと
ちょっとした竪堀状の痕跡が見える。
その下には城館があったそうです。
東側斜面に降りた。
西城はここまで。
次に、田んぼの畦道を通って谷の東へ。
↑東城を見る
「東城(曲輪②)」
入口がわからず適当に藪の中を直登
登ったら、東側の民家と耕作地が見えた
↑北側土塁がL字に曲がった場所
土塁はここで切れて左側は通路状。
↑手前が土塁の北側の平場
その先が細尾根曲輪
元に戻って
東側の土塁の上を南下すると
先端部に直線土塁あり!
西城と同じなら土塁の背後は堀切になるはずだが、
一段下の段曲輪に見えるだけ。
こんな感じ。
東城(曲輪②)は東側と南側に土塁がある。
西城(曲輪①)には南側しか土塁が残ってないが、これは現在耕作地になってるため。
本来は土塁が曲輪を囲んでたのでは?
と思った。
この後、
「姫塚」に立ち寄った
落城した時に城主の姫が自害した。
ダマの木を植えて姫塚とした、とある。
以上です。
耕作地は登りやすいが遺構が改変されてる可能性あり。
一方、藪地は遺構の残存がいいが、探索しにくく遺構の確認が難しい
困ったもんですな。
Φ(*^ひ^*)Φ
ところで、
Googleマップで詳細に確認してみると、
Googleマップでの上迫城の位置は谷の奥の山の中、
某城マニアさんのマップの位置は、さらに東南側の尾根の上に。
どちらも我が輩が探索した場所からかなりズレてます。
位置設定がデタラメなのでは?
それとも我が輩は間違った場所を探索したのか?
もう一度、確認のために再調査すべきなのか?
うーん…
馬《●▲●》助ヒヒーン♪