【伊予国遠征17】湯築城その2

2020年2月22日(土)、

外堀のコーナーから北上しました
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この先が大手口になる。

右手が外堀土塁
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その手前の左側に
「遮蔽土塁」


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この土塁と外堀土塁の間は狭い通路となり、大手からの侵入を阻む虎口だ。


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当然、門があったと推定される。


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ちなみに、彦根城切通口御門から佐和口御門にかけての通路は外堀と中堀が極端に狭まった場所で、ここの土橋を通らないことには城内に入れない。


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鉄壁の防御となってます。

いつか詳細をアップします。

 

遮蔽土塁の北側に廻りこんだ。

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大手虎口との間の広場。

枡形、馬出のようになってたかもね?


これより北は公園になってるので遺構が不明。

ここで引き返し

内堀に沿って西口へ向かう


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内堀の対岸の山は岩盤がむき出しになってる


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内堀土塁の下から14世紀の火葬墓が見つかってる
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なぜここに墓が?

理解できない

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内堀土塁
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内堀土橋を渡る


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丘陵部へ登りました。


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遊歩道として整備されてます。


「古城之図」がある。


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これを見ると内堀と外堀はどちらも一周してたようです。
というか、前方後円墳のように見える。
二重の堀は古墳の堀を利用したのかも?

となると、土塁の下から見つかった火葬墓は古墳時代のものではない?

などと思えてくる…


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遊歩道を登ると

 


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「杉ノ壇 」
円墳の名残?
ではないようですが…
解説によると


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廃城後は鍛冶場だったようです。
さらに南側の裾には堀切があったが埋め戻された、と書いてある。

丘陵部はすべて公園化されてるので遺構を確認するのは無理です

「本壇」


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ここが山頂なのでおそらく主郭だったのだと思います。
麓の居館と山頂の詰城という関係で機能してたのだと思います。


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展望台があります


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杉ノ壇と本壇という言い方は江戸時代の呼称です。

展望台(円墳?)から下の前方墳(本丸内?)を見下ろす

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松山市街地を見る


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周囲の山に砦があり一部の山は湯築城山と繋がってそうな。

松山城を見る。


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翌日行きます!

 

 

展望台を降りて、下山開始。

遊歩道を降りつつ、
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これは犬走?帯曲輪?

この付近段々状になってる
妄想です…


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グラウンドを見下ろす。



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↑内堀土橋を見る


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岩崎神社


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鳥居へ降りた


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由緒を見ると祭神として


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河野氏の他に土居氏、得能氏の名が。
いずれも河野氏の系統です。


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グラウンドから北側へ向かう。


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「石造湯釜」


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日本最古の湯釜で道後温泉で使用されてました。


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奈良時代に造られた。
一遍上人が「南無阿弥陀仏」を刻んでる。
一遍上人河野氏です。

栄華を誇った河野氏、戦国時代に豊臣秀吉の命で小早川隆景が攻めて落城。
隆景が湯築城の城主となるが、次の福島正則の時に廃城となりました。

Φ(*^ひ^*)Φ
実を言うと、10数年前にマイカーで四国一周したときに道後温泉の次いでにここに立ち寄った。
その時は、城跡だという認識が全くなくて単なる道後公園と思っていて、トイレを借りて立ち去りました。

何も知らないということは困ったものですね。

今思うと恥ずかしい

汗顔の至り、です


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湯築城探索は以上です。

16時45分、

日没まであとわずかですが、
石手寺へ向かいました

 

次回に続く…

 

Φ(*^ひ^*)Φ

松山市内には湯築城松山城の2つの百名城がある。

同一市内で近くに2つの百名城があるのは、

我が県の安土城観音寺城の関係に似てますね。

ちなみに近江八幡市には、さらに続百名城として八幡山城がある。

近場で3つのスタンプを押せるなんて効率的ですよね。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪