【草津市志津探訪②】小槻神社〜
2017年06月03日(土)、
JRハイキングに参加した。
西方寺の東に『小槻神社』おつきじんじゃ
石の鳥居は、大津市大鳥居町から石材を切り出し大戸川を下り瀬田川→琵琶湖→伯母川を遡ってここに運ばれた。
石段を登る
ここは部田(へた)古墳群で、古墳の石室に使われていた石材を石垣に利用した。
「本殿」
創建年代は不明。
貞観2年(860)に正一位の宣旨を賜ったという記録がある。
日本の数学のルーツとされる小槻山公ゆかりの神社。
なお、小槻山公今雄を祭神とする雄琴神社(大津市、栃木県)に廟がある。
大津市の雄琴神社は「おごと」
栃木県壬生町の雄琴神社は「おこと」と読むそうです。
いずれも栗太郡の在地豪族「小槻山君」ゆかりの神社で、青地氏や壬生氏は小槻氏の系譜に繋がる。
ちょっとややこしいが、前回岡村城跡で触れた小槻大社と小槻神社は別の神社です。
どちらも小槻山君関連の神社ですが…
今回の探訪は、栗太郡志津地域の豪族小槻氏ゆかりの場所を巡ります。
小槻山君は第11代垂仁天皇の皇子が祖だと言われてます。
青地氏は小槻氏の一族か家臣の家柄で、後に佐々木氏から養子を迎えてるので
源氏と称するようになりました。
小槻神社から志津小学校へ移動する
志津という地名は消えたが学校の名前に受け継がれて地域の絆として歴史を背負ってます。
空堀ではないか?と思って見てます
土塁かな?と思って見てる…
実は、現在の志津小学校校舎の付近が青地城の本丸とされる。
学校の敷地に入りました
個人だとなかなか入れません。
『青地城主之碑』
五輪塔ですね。城主の墓。
「解説板」
鎌倉~室町時代、青地氏の居城。
鎌倉時代中頃、近江守護佐々木定綱の孫基綱が青地氏の養子となりその子忠綱が築城した。
城跡の規模は方二町、丘陵に3つの平坦面がある。
周囲に堀、土塁を巡らし、草津市内では唯一の本格的な中世城郭跡。
支城の役割として周囲に小槻神社、無量寿寺、祥光寺などが配置され、家臣の館が取り巻いてた。
永正4年(1507)6月24日、細川澄元と三好之長が青地城に立ち寄った記録がある。
織田信長の近江侵攻では、青地氏が六角氏についたため廃城になった。
家紋が四つ目角なので、佐々木氏系だとわかりますね。
「青地城山碑」
石碑の背後は
間違いなく土塁遺構。
ぐるっと巡ってます。
小学校の敷地を下に見る
本丸でした。
小学校の正面通路。
城跡としてみるなら大手の土橋といった雰囲気。
通路の左は池、
通路の右下に駐車場。
本来は駐車場も含めて通路の左右は水堀だった。
なお、この通路がもともと橋だったかどうかはわからない…
通路をふりかえって見る
小学校が小山にあるということがわかりますね
平地の城だが、周りの湿地や河川が
自然の防御となり、近くの寺社は支城の役割を果たした
市民センターで講義を受けた時に
縄張り想定図を撮影した
この図から察するに
空堀かな?と思って眺めたのは切り通し。
城跡石碑は土塁に囲まれた2郭。
土橋のような正面通路は学校のために造られたようで、本来は無かった、
ということになりますな。
その③に続く
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
近江高校、負けました。
甲子園でエラーが多いと勝てませんな。
ま、東海大相模と初戦で当たったのが間違い!
くじ運が悪かった。
と、思うしかない…
馬《●▲●》助ヒヒーン♪