【伊予国遠征5】河後森城4、西第十曲輪

2021年2月21日(金)
河後森城の曲輪群は馬蹄状になってます。
中央部の本郭を境にして東尾根と西尾根に段々曲輪群が並ぶ


f:id:umahide:20210726153343j:image

西尾根曲輪群を下ってます。


f:id:umahide:20210726153414j:image

西第六と第七との間の薄い薄い堀切土橋


f:id:umahide:20210726153437j:image

第7から第9へは第8を飛び越えての大きな階段がある。


f:id:umahide:20210726153509j:image
第8は帯曲輪兼馬出虎口的な性格があるのかな?

素人の我が輩はわからない…


第9から第10へも階段で移動


f:id:umahide:20210726153645j:image

そして、
11時56分、
「西第十曲輪」


f:id:umahide:20210726153720j:image
先端部にあり谷の入口を見張る大きな曲輪。
門がある。

f:id:umahide:20210727230550j:image


下には帯曲輪があります


f:id:umahide:20210727230426j:image
薄い堀切土橋も見える

↓こんな感じ
f:id:umahide:20210728152023j:image

 

 

ここで初めて曲輪を囲む土塁が登場しました。

f:id:umahide:20210727230512j:image
低いです。
解説板によると完全な復元ではない。
高さも幅もわかっていない、
ということなのであくまでも想像の土塁です
土塁は古い時代のもので後に土塁を取り払い長屋風の多聞櫓が築かれた、そうな。


f:id:umahide:20210727230632j:image

防御方法に時代差があるというわけです。


f:id:umahide:20210728151839j:image

現代の多聞櫓?

柵があるため下に降りられない。


f:id:umahide:20210728152000j:image

↑柵のすき間から下の堀切と曲輪を見る

 

 

中央に「馬屋」復元


f:id:umahide:20210727230652j:image


f:id:umahide:20210728152200j:image
柱の列が正確なので番匠と呼ばれる建築の専門工人が造った建物だとか?


f:id:umahide:20210728152225j:image
2つの建物が確認されたが建て替えられたもので同時期に存在したわけではない、という。

 

馬屋の所で
f:id:umahide:20210728154908j:image

百名城スタンプGET!

 

ノートに記帳した
f:id:umahide:20210728154955j:image

 


f:id:umahide:20210728155101j:image

門から西第十曲輪を見る

 


f:id:umahide:20210728155138j:image

河後森城と宇和島城の門の違いについての解説板

 

感心!感心!

 

この後、門からの通路を下って風呂ヶ谷へ向かい、柵の下の堀切・竪堀群を見に行きます


次回へ続く~

 

 

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

競泳の大橋悠依選手、

金メダル2つという素晴らしい快挙!
f:id:umahide:20210728155709j:image


f:id:umahide:20210730114023j:image

 


f:id:umahide:20210730114104j:image

 


f:id:umahide:20210730114122j:image

 

実は大橋選手の出身中学が、我が母校。

つまり、我が輩は大橋選手の先輩なのです。

 

残念ながら全く泳げないけどね😅

 


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

日本百名山「伊吹山」初登頂

日曜日、梅雨明け宣言が出たので満を持して念願の伊吹山登山に挑戦した。
実は中学生の時に従姉と一緒に夜間登山したことがある。
だから、50数年ぶりの伊吹山ハイク。
その時の記憶があり、伊吹山をなめてました。
駐車場満杯の可能性があり、遠いけど道の駅に停めて登山口まで歩きました。


f:id:umahide:20210721112906j:image
↑道の駅伊吹の里はまだ開館前でした。


f:id:umahide:20210721113049j:image
登山口バス停

長浜駅近江長岡駅からバスあります。


f:id:umahide:20210721113203j:image

登山祈願しました


f:id:umahide:20210721113248j:image

見ると、たくさんのハイカーが!
滋賀県で一番高い山、百名山だけにさすがに人気の山ですね。

事務所で入山料300円納める。

その代わり案内パンフレットくれます。

登山届も出していざ!


f:id:umahide:20210721113317j:image
9時、登山口。


f:id:umahide:20210721113537j:image


f:id:umahide:20210721113549j:image
登山道は瓦礫が多くて膝にきます



f:id:umahide:20210721113641j:image
一合目まで30分

 


f:id:umahide:20210721113721j:image
3合目


f:id:umahide:20210721114226j:image

3合目はお花畑があるので花を見て帰る人もいます。


f:id:umahide:20210721114353j:image


f:id:umahide:20210721114414j:image

黄色い花は「ユウスゲ

ちょうど満開でした


f:id:umahide:20210721114615j:image

 


f:id:umahide:20210721114655j:image

五合目付近から右手に弥高寺、上平寺への登山道があります。

f:id:umahide:20210722221757j:image

足を痛めなければ立ち寄ったかも?


f:id:umahide:20210721114949j:image

避難小屋、頑丈にできてます。

 


f:id:umahide:20210722221900j:image

8合目付近からは霧が出て視界悪い。親子連れと競争して登った。


f:id:umahide:20210722221930j:image
これも失敗の1つかも?

 

12時半、山頂到着
f:id:umahide:20210722222008j:image

山頂はガスで視界悪く楽しめなかった。


f:id:umahide:20210722222113j:image


f:id:umahide:20210722222325j:image

f:id:umahide:20210722222130j:image

でも、初めて百名山登山証明書GET!


f:id:umahide:20210722222158j:image
よし、我が輩も全国の百名山制覇を目指そうかな?と思った。

しかし、下山し始めると登りの無理がたたったのか、寄る年波に勝てなかったのか、
右膝に痛みが!
杖に身体を預け、そろりそろりと下山。
伊吹山の登山道はゴロゴロ石が多くて歩きにくく膝の負担が半端ない。
普通なら登りよりも下山は短時間で降りられるはず。
逆に登りよりも時間がかかった。
一合目の茶店に到着した時は倒れる寸前でした。


f:id:umahide:20210722222727j:image

冷たいかき氷を食べてなんとか息吹き返した。
そして、最後の力をふりしぼって一合目から下るが、相変わらず右膝が痛い。
足を庇いながら降りてゆくと後ろから若い青年が声をかけてくれて、『このペースでも日没までには登山口に戻れるから大丈夫ですよ。連絡とれる携帯持ってますか?』など励ましてくれた。
感謝感謝です。
この後、登る時にも見かけたお嬢さんが後ろから見守るように登山口まで付いてきてくれた。
いやもうホントに感謝しかない。
この女性はバス停のほうに向かわれたので県外の人かも?
何も言えなかったので、今さらですが『ありがとうございました』とここで述べたい
ともかく、想定以上の疲労と時間がかかったが無事に帰宅できました。


f:id:umahide:20210722222408j:image

普通の人は往復五時間ぐらいなのだが、

今回は10時間弱もかかった。

結局のところ、
自分の体力・脚力を考えると1000m級以上の山は自分には無理だとわかりました。

百名山は今回が最初で最後の登山になると思う。
今後は、低山と街道歩きに専念するしかないようですわ。
馬《●▲●》助ヒヒーン♪

【伊予国遠征4】河後森城3、本郭~西段々曲輪へ

2021年2月21日(金)
古城→新城を探索後、


f:id:umahide:20210713233146j:image
次は本郭(本城本丸)を目指します。


11時15分

f:id:umahide:20210713233517j:image
↑東第三曲輪→東第二曲輪の南側斜面の犬走を登る


振り返ると古城方面が見えるf:id:umahide:20210713233701j:image
↑東第二曲輪は薄く上下段に分離してます


f:id:umahide:20210715221002j:image

本郭が見えてきた

f:id:umahide:20210713233952j:image

発掘調査の結果に基づいて掘立柱建物跡(主殿舎)が復元されてます


f:id:umahide:20210715221345j:image
東西12m、南北9m


f:id:umahide:20210715221359j:image
縁側は板の間↑
客人・家来・主人などの部屋は畳で、


f:id:umahide:20210715221425j:image

ここで公式の儀式が執り行われたと推定されてます
出土遺物は15世紀~16世紀にかけてのものばかりなので江戸時代には使用されてなかったようです。


f:id:umahide:20210715221449j:image
柱は岩盤を丸く掘って建てたそうです。


f:id:umahide:20210715221618j:image

広見川方面を見る。
眺望抜群!

西南部に門跡


f:id:umahide:20210715223439j:image


f:id:umahide:20210715223600j:image

一段下の西第二曲輪との間に通路、門、堀切、土橋。
いずれも岩盤を切り抜いて造ったそうな。


f:id:umahide:20210715223510j:image
2つの時期差があるのでちょっと構造かややこしい。


f:id:umahide:20210715223621j:image

f:id:umahide:20210715223632j:image

石垣、通路は新しい時期で1600年前後。
関ヶ原合戦頃ですな。


f:id:umahide:20210715223845j:image
次の下の郭の「西第二曲輪」から振り返って本郭を見る

土橋の左右に堀跡、石垣がよくわかります。

でもホントにこれは土橋だったのか?

右手に犬走通路虎口があるので中央に土橋があるのは解せない。

これも時代差なのか?


「西第二曲輪」


f:id:umahide:20210715225305j:image

本郭とほぼ同じ位の大きな曲輪。
例のごとく平坦地。
北側下に腰曲輪あり。

f:id:umahide:20210715225335j:image

こちらも南側に犬走通路あり、


f:id:umahide:20210715225404j:image
そして、西第三曲輪との間の細い堀切。


f:id:umahide:20210715225428j:image

堀切そのものは浅く幅も狭いが西二曲輪の切岸と物凄い落差がある。
切通路は人間1人通るのがやっとの狭さ。


f:id:umahide:20210715225457j:image
この堀切は通路として北側の腰曲輪と行き来できるようになってたと思われる。

というか、後で腰曲輪から行けることを確認しました。

 

西第三曲輪~尾根先端の第10曲輪までは段々曲輪として下がっていきます。


f:id:umahide:20210715230244j:image


f:id:umahide:20210715231347j:image
曲輪ごとの切岸に萌えます↑

西第六曲輪の西側に犬走通路があり西出曲輪へ行けます


f:id:umahide:20210715231333j:image

西出曲輪は西第三曲輪の尾根伝いに西側にあります。

整備されてなくてちょっと藪状態。

西出曲輪はパンフレットに掲載されてません。
f:id:umahide:20210715231438j:image
二段で竪堀、空堀っぽいものを確認しました


f:id:umahide:20210715231457j:image

土塁が初めて出てきました!
さらにその下にも曲輪がありそうだが無茶するのはあきらめた


f:id:umahide:20210715231547j:image

この後、帯曲輪から上り↑


f:id:umahide:20210715231608j:image

第二と第三の間の細い堀切に戻りました

人間1人通るのがやっとの細い堀です。

 

この後、段々曲輪を下り先端部の西第十曲輪へ向かいます。

 

続く~

 

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

89歳の母、ワクチン接種2回目完了しました。

2回とも副反応全く無し。

 

ひとまず安心しました。

 

ちなみに、我が輩はワクチン接種しません。

注射や薬、嫌いなのです。

コロナで倒れても天命だと思ってあきらめるつもり。

 

母のほうが長生きするかもね😅

 

以前にも述べたが、

貴重なワクチン、現役世代の人が最優先で打つべきだと思うのですが…

 

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

滋賀県立公文書館の行政資料


滋賀県立公文書館

 

企画展示の紹介文↓

大河ドラマ『青天を衝け』の主人公渋沢栄一が注目を集めていることから、当時の銀行にも関心が集まっています。渋沢は明治5年(1872)に国立銀行条例を発布し、翌6年太政官を退官して第一国立銀行を設立しました。滋賀県内でもこうした気運を受け、多くの銀行が登場してきました。県下に本店を置く最初の銀行である第二十一国立銀行(長浜)や、現在の滋賀銀行の前身の一つである第百三十三国立銀行彦根)などはその一例です。また農村部においても、地主たちの設立による江頭農産銀行(近江八幡)や近江商人たちの設立による湖東銀行などが誕生し、県内の経済発達を支えていきました。

  しかしこうした多くの中小銀行も、昭和2年(1927)の昭和金融恐慌によって引き起こされた諸銀行の休業問題(栗太銀行や近江銀行など)・取付け騒ぎなどに直面して次第に淘汰の時期を迎えることになります。

  今回の展示では、最終的に滋賀銀行へと集約されるまでの、県内における銀行黎明期の時代をたどっていきます。

 

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

コロナのために最近、大津市や博物館を訪問する機会が減った。

困ったものですわ

 

◆行政文書紹介◆



f:id:umahide:20210707105807j:image

↑解体され始めた彦根城明治天皇が保存するように滋賀県令(知事)に要請した文書。

 




f:id:umahide:20210707105844j:image
↑旧街道歩きにとって、道標と一里塚とともに明治天皇行幸の足跡の顕彰碑は貴重な手がかりとなる。
この絵図を見ると、北国街道は柳瀬から疋田を経て国境を越えた、とわかる。

実際には逆で、越前敦賀→疋田から峠を越えて余呉町柳瀬へ入られたそうです。

当時、越前国敦賀郡及び若狭国滋賀県の管轄で、滋賀県日本海に面する県だったのです。

なお、この柳瀬の峠越えのすぐそばに柴田勝家の本陣となった百名城の玄蕃尾城があります。

柳瀬から玄蕃尾城へ向かう途中の道に電柱の痕跡が残されてる。

これは天皇行幸の時に設置されたそうです。

 



f:id:umahide:20210707105853j:image


天皇東海道三重県へ向かう予定だったが三重県で疫病が流行っていたために中山道を進むことにしたという。

 

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

行政の公文書は貴重な歴史資料です。

国の官僚は、黒塗りしないで忠実にすべての行政文書を残し、誰でも閲覧できるようにしてほしいものですな

 

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

 

 

 

湖東三山「百済寺」城

近江湖東地区には天台宗系の大寺院として西明寺金剛輪寺百済寺が建立された。

いずれも織田信長の標的となった寺院です。

この3つの寺をまとめて湖東三山と呼ばれてる。

国宝建造物や仏像、庭園などがあり

紅葉の名所として秋にはたくさんの参拝者で賑わいます。

つまり、今はオフシーズンなのですが、先日のテレビ・新聞で百済寺菩提樹の花が見頃を迎えてるというニュースがあったので、

母がデイサービスに通ってる隙間を利用して早速駆けつけました。

実は湖東三山のなかで百済寺だけがまだ未踏、しかも百済寺は城郭寺院として有名なので城郭遺構を見たかったのです。


f:id:umahide:20210701230602j:image


f:id:umahide:20210701233351j:image

 

マスコミの威力は凄いもので、平日にもかかわらず京都大阪ナンバーの車が次々にやって来てました。

思わずマスクをしっかりと付けましたよ。


f:id:umahide:20210701230831j:image

拝観料を支払って境内に入ると


f:id:umahide:20210701230917j:image

見事な千年菩提樹


f:id:umahide:20210701231054j:image

生まれて初めて菩提樹の花を見ました。

でも、見頃を過ぎてた…

もう少し早く来るべきだった

 

赤門
f:id:umahide:20210701231625j:image

 

門の手前、右側に
f:id:umahide:20210701231720j:image

立派な堀!

登城道の脇なので横堀か?

普通ならこの奥を探検するのだが、この日は軽装で登山靴・杖も無いので断念した。

 

実はこの近くに井伊直滋の墓もあるのだが、

見逃しました。

う~ん残念無念。

ちなみに直滋が将軍家光の寵愛を受けてたので井伊家を継いだら百万石の大名になれた、という逸話がある。

 

安土城か?と思わせるような石段石垣道
f:id:umahide:20210701232626j:image


f:id:umahide:20210701232720j:image

赤門からここまでは無料で見学できます。

 

ルートが前後しますが、

菩提樹を見た後、本堂へ向かう


f:id:umahide:20210701233011j:image

比叡山、三上山、琵琶湖など眺望良し!

 

山城としての石垣遺構
f:id:umahide:20210701233307j:image

 

立入禁止なので高石垣の近くへは行けません
f:id:umahide:20210701233438j:image

 


f:id:umahide:20210701233545j:image

現在、境内に300の坊跡が残されてる
f:id:umahide:20210701233608j:image

つまり、300の段々曲輪があるわけ!

どうみても城郭寺院ですよね

弥高寺城も真っ青?の曲輪群
f:id:umahide:20210701233837j:image

 

仁王門
f:id:umahide:20210701234212j:image

 

大きなわらじ
f:id:umahide:20210701234250j:image

現在、2体の仁王様は修理中のためもぬけの殻状態

 


f:id:umahide:20210701234457j:image

本堂の高石垣


f:id:umahide:20210701234541j:image

凄いです

 

本堂の上の旧本堂跡へ登った
f:id:umahide:20210701234716j:image

土塁、横堀、竪堀などが残されてます


f:id:umahide:20210701234900j:image

 


f:id:umahide:20210701235025j:image

立入禁止区域もあり制限あるが、

遺構は随所に見られます。

 

いつか冬にでも登山姿で出直したいな、と思いました。

 

というか、城郭目線で歩き回ってたのは我が輩だけ…

 

以上です

 

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

 

【伊予国遠征3】河後森城2、新城へ

2021年2月21日(金)
古城探索後、大堀切の門へ戻った。


f:id:umahide:20210623151515j:image

ここは本郭、古城、新城の3方向の分岐になってる

10時31分
新城へ向かう。


f:id:umahide:20210623151541j:image
解説板によると、
発掘調査の結果、新城主郭には見張り用の高層櫓や土塀があった、と判明した。
とある。


f:id:umahide:20210623151615j:image
尾根上の細い道を南へ進む



f:id:umahide:20210623151810j:image
通路に階段があり、左手の盛り上がりには小さな段曲輪群が連なる


f:id:umahide:20210623151721j:image
前方に高まりが見えてきた。


f:id:umahide:20210623151755j:image
低い切岸です
あの上が新城の本丸です
南東側の虎口へ回り込む


f:id:umahide:20210623151917j:image
主郭下にはいくつも小さな帯曲輪が取り巻いてる
f:id:umahide:20210623152445j:image



主郭を見上げる

f:id:umahide:20210623152025j:image
上の看板の所に門があったそうです。


f:id:umahide:20210623152302j:image
帯曲輪を見る

 

新城本丸から
f:id:umahide:20210623152423j:image
土佐国方面を見る


本郭(本城本丸)方面を見る


f:id:umahide:20210623152644j:image

本郭の左手下に西10曲輪の建物が見える。


f:id:umahide:20210625223939j:image
百名城スタンプはあの建物にあります。
谷の向こう岸まで遠い、ですわ。
今いる新城と西10曲輪の間に風呂ヶ谷があるので、谷を見下ろす形で両方の曲輪が防御してるわけです。
駐車場は風呂ヶ谷の入り口にあります


新城本丸は例のごとく土塁のない平坦地です


f:id:umahide:20210625224055j:image
土塀が取り巻いてただけの造り。


f:id:umahide:20210625224152j:image
こちらは高い切岸と下の帯曲輪

南東側の堀切土橋


f:id:umahide:20210625224231j:image
左手が大きく掘れてるのがわかるかな?
土塁の向こうにも小さな堀切のようなものがありました


f:id:umahide:20210625224734j:image
↑新城の東側に長い竪堀があるはずなので斜面に降りた


f:id:umahide:20210625224815j:image
が、下草が多くてわからない。
あきらめて引き返しました。

11時11分、またまた大堀切門に戻りました


f:id:umahide:20210625224848j:image

そして、最初の登山場所。


f:id:umahide:20210625224912j:image
本郭を見上げる

本郭へは南斜面の道を登ります

次回へ続く~

 

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

我がひこにゃん市出身の桐生選手、

100m走の代表になれなかった。

残念です😥

 


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

【伊予国遠征2】河後森城1、永昌寺~古城

河後森城、「かごもり」と読む。

伊予と土佐の国境にある。だから、高知県からJR予土線でのアクセスもあり、です。

中世の巨大山城で愛媛県最大級と言われてる。

最大、じゃなくて最大級…

最初の城主は渡辺氏で鎌倉時代に入城したとされる。

国境のため土佐一条氏と長宗我部氏の戦闘の舞台となり、長宗我部氏が支配下となるが、秀吉の四国平定後は、小早川氏→戸田氏→藤堂氏→冨田氏と城主が変遷。

江戸時代は、伊達藩の領地となり付家老の桑折氏の居城となりました。

伊達家にとって国境の河後森城は要衝だったことがわかりますね。

なお、藤堂氏時代に天守が板島城(宇和島城)の月見櫓として移された、という説があります。


f:id:umahide:20210611151641j:image

松丸駅からパンフの徒歩ルートに従って山へ向かいました


f:id:umahide:20210611151705j:image

芝不器男という俳人の出身地で、いたるところに石碑、句碑があります。


f:id:umahide:20210611151729j:image

なお、芝氏は最初の城主渡辺氏の重臣だったが、戦国時代に渡辺氏を謀略で追い出し新城主となり一条氏や長宗我部氏の間をうまく立ち回った。

しかし、秀吉時代に追放されてしまった。

芝不器男はこの芝氏の子孫かも?ね。


f:id:umahide:20210611151758j:image

旧松丸街道の宿場として栄え、趣のある建物が残されてます。


f:id:umahide:20210611151820j:image

坂本龍馬が脱藩した時、土佐からこの松丸街道を通って伊予国へ抜けたそうです。


f:id:umahide:20210611151906j:image

尾西小学校の横を通り


f:id:umahide:20210611151937j:image

 

「永昌寺」へ。


f:id:umahide:20210611152004j:image

山上の河後森城は詰城で、城主の普段の居館はこの永昌寺だったそうです。


f:id:umahide:20210611152027j:image


f:id:umahide:20210611152053j:image

境内には不器男の句碑と、


f:id:umahide:20210611152117j:image

城跡碑あります。


f:id:umahide:20210611152136j:image

 

車の場合、北の駐車場から登れるが、我が輩は永昌寺登山口から登りました


f:id:umahide:20210611152209j:image

 

10時05分、



f:id:umahide:20210612224031j:image
東第二曲輪と東第三曲輪の間に出ました。

「東2」の右上が主郭になる。

登山口から寺の登山口から7分ほどです

 

主郭は後回しにして、まずは東曲輪群を探索します。

東3から東4へは一段下がる

f:id:umahide:20210612224051j:image
右手の下は犬走通路かな?

そして、

東曲輪群と古城群の間の堀切が見えてきました
f:id:umahide:20210612224108j:image

犬走通路へ降ります

f:id:umahide:20210612224305j:image

曲輪の間の堀切へ


f:id:umahide:20210612224402j:image

門が復元されてます。

犬走から堀切へは通路として利用されたようで、門から旧松丸街道及び広見川方面への大手もしくは搦手の登城道があったかな?と想像できます。

堀の深さは3m、幅は4~7m

城内では最大の堀切です。

発掘調査で掘立柱跡が見つかったのでそれをもとに門が復元された。

f:id:umahide:20210612230032j:image

↑堀切・門の向こうの下が旧松丸街道、広見川


f:id:umahide:20210612230941j:image

門の解説図があるが、読みにくい。

地元の小学生の手製の図は好感度大!

気持ちが嬉しいです。

 

堀切を越えて
本丸の下の段曲輪「古城第二曲輪」から階段を登り

【古城1、本丸】
f:id:umahide:20210618105527j:image

古城には、番小屋や櫓があった

配置図
f:id:umahide:20210618110336j:image

↑松野西小学校生徒の作品


f:id:umahide:20210618111232j:image

 

西側(街道側)に「石打棚」があった。

初耳の用語です


f:id:umahide:20210618111338j:image

板塀を使った防御壁
f:id:umahide:20210618111350j:image

柱跡などからの想定図です

色々と想像をかきたてられますな


f:id:umahide:20210618111656j:image

麓を見る。

眺望良し。

古城という名前から察するに鎌倉時代から戦国時代にかけての本来の城跡のメインはここだったのだろうね。

ここまで見てきて気づいたのは平坦な削平地ばかりで竪堀も土塁も見当たらない。

これが伊予国の古い城のあり方なのかな?

ちょっと物足りないような…

 

本丸の東の端から下をのぞく
f:id:umahide:20210618112226j:image

段曲輪、堀切が見える

道が無く恐いけど、なんとか降りてみた


f:id:umahide:20210618114839j:image

 

すぐに土橋、堀切
f:id:umahide:20210618115057j:image

堀切は短く薄い、竪堀として落ちてない

向こうに古城4と3が見えます

 


f:id:umahide:20210618115230j:image

古城4は古城3の下の段曲輪

 


f:id:umahide:20210618115308j:image

古城3は細長い曲輪で東尾根に伸びる


f:id:umahide:20210618115554j:image

 

先端近くまで進んだが下草多く
f:id:umahide:20210618115613j:image

引き返して

堀切・門へ戻りました

 

 

 

この後、新城、本郭へ向かいます

 

次回へ続く…

 

馬《●▲●》助ヒヒーン♪