【山城開田(かいでん)城跡】長岡京市
"2019年6月16日、
物集女城跡から、
西国街道歩きに戻り
途中でまたまた寄り道、
阪急長岡天神駅から少し西へ進むと
バス停の隣に公園あり。
背後に土塁があります。
ここが、
【開田(かいでん)城跡】
こちらは、西岡被官衆の一人の中小路氏の居城だった。
解説によると、
発掘調査で、
一辺70mの方形居館、
幅6.5m、高さ2mの土塁、
幅8m.深さ1mの堀
が見つかった。
南西部に張り出しがあり、虎口か。
城内には、掘立柱建物、井戸などの遺構があった。
公園付近は北西部に位置する
左隣が工事中のマンション
土塁北西側。
この石垣は当時のものか?
それとも復元か?
東側土塁
城内は、よく見えない。
隣のマンションから見おろすのが一番いいのだが、部外者は入ってはいけません。
マンションは、工事中だったが、
一階のエントランスには自由に入れる。
カウンターの前に
復元模型や資料が展示されてます。
発掘調査はマンション建設に伴うものだったのだろうね。
遺構が消滅するお詫びとして資料を残したのかな?
パンフレットをいただきました。
上の階に上がることも可能だが、
工事中の足場で見えないし、不法侵入と言われかねないので、
退散しました。
前の道路は北堀の跡?
約20分ほど北上して
やってきたのが、
【今里城跡】
長岡今里郵便局の西隣のマンションの前に解説板
土豪の居館跡。
九条家の荘園の台帳の記述から能勢氏の居館だったと判明した。
解説板には書いてないが、この能勢氏も西岡被官衆の一人なのかな?
小字「城山」地名があり、発掘調査の結果、木橋、井戸、堀、木簡、磁器などが見つかり、16世紀中頃まで機能してたようだとわかった。
1568年、信長は三好三人衆の勝龍寺城を攻めてます。
その頃に消滅したのか?
現在、遺構は無し。
この看板のみです。
城跡看板の前の道は長法寺道と呼ばれる。
西に行くと長法寺があります。
これにて、洛西地域の城跡巡りはおしまい。
西国街道へ戻る途中に
『明星水跡』
開田と今里の境界線に位置し、
推古天皇がこの水を飲んで元気になったそうです。
こちらも看板だけで、遺構は無し
この付近『弓場街道』
「ゆんば」と読むそうですが、意味がわからない
そして、西国街道へ戻りました。
寄り道、長すぎ…
乙訓、西岡地域の城跡
印付けた城跡が、攻略済み。
残りの城跡はまたいつか、ですわ。
下関まではまだまだ先が長い…
馬《●▲●》助ヒヒーン♪