近況報告
遅ればせながら、あけましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い申し上げます。
母が9月に倒れて以来腰痛で寝たきりとなり、毎日自宅で介護してました。
が、9月末に意識が鈍くなり腕にむくみが発生。
市の解雇調査員が来て、危険な症状なのですぐに病院の診察を受けるべし!
との助言を得たので、救急車を呼びました。
救急外来での診察の結果、予想に反して腰痛は問題無し。
頭の血管から血が漏れて、たまった血が脳を圧迫し意識の異常を発生させてる、と判明。
いやぁ、びっくりでした。
即、頭に穴を開けて血を抜く手術を受けた。
小一時間ほどの簡単な手術で、無事に意識はほぼ正常に戻りました。
しかし、長く寝たきりだったのと、脳圧迫の後遺症のためか、自分で食べることができなくなり、自力の動作もできず、ほぼ全介助状態になってしまった。
この後、母は約1ヶ月半入院し、とりあえず食事だけは自分でできるようになった。
治療は完治。
なので、別のリハビリ病院に転院し、現在は毎日病院でリハビリを受けてます。
食事以外は相変わらず全介助状態だが、車椅子で生活をおくることができるようになった。
今の様子だと、春には退院して自宅で介護することになると思います。
そうなれば、デイサービスなどの介護施設を利用するつもりです。
とりあえず、自分としては母が入院中に家の片付けなどして、廊下に手すりを付けたり車椅子生活するための準備を毎日してます。
一方、合間を利用して12月から山城巡りを再開しました。
県内は、東近江市の布施山城・大森城。
県外は、
岐阜県の郡上八幡城、東殿山城(ここは険しくてかなり危なかった)、
続百名城3つスタンプ押せました。
そして、一昨日は京都の周山城に登りました。
ちょっと危ない場所もあるが、京都一周トレイルのコースになってるので登山道整備されていて、随所に残る石垣・石積を堪能できて満足満足。
今後も母が退院するまでは少々余裕があるので、折りを見つけて山城と街道歩きをするつもりです。
今のところパソコンを触る時間がないので登城記録の詳細をアップするのは無理。
簡単な近況報告のみとなるが、時たまアップしたいと思います。
なお、実を言うと、自分自身も先月、救急車で運ばれる事態になった。
診断は胆石症でした。
明日、MRI検査を受けます。
結果次第では手術するかも?
今まで全くの病気知らずだったが、ついに初めて病気持ちとなりました。
もう高齢者なので仕方ないけど、病気と付き合いながら、低空飛行で余生を過ごすしかない。
そんな今日この頃で、あります。
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
お知らせ
9月1日に、仙台近辺の史跡巡りから無事に帰還しました。
が、翌日の朝、母が転倒し腰痛に。
87歳という高齢のため、もう立ち上がることができず、寝たきりとなりました。
ディサービスなど介護補助や施設の利用も考えてるが、母は頑固ですべて承知しない。
医者に連れて行くことも見てもらうこともできず、
結局自分が介護をすることになりました。
今まで家事、特に料理は全くせず、母に頼りきりだったので試行錯誤しながらやってます。
今まで、気ままに自由にさせてもらった恩返し、最初で最後の親孝行と思ってこれから何年かかるかわからないが、必死で介護をするつもりです。
そんなわけで、
史跡巡りのお出かけはとても無理。
近所のスーパーに買い物に行くのが精一杯。
パソコンを触る余裕もなし。
当分の間、ブログのアップはしません。
コメントも自粛します。
場合によってはこのまま永遠にブログアップすることはないかも?
あしからず、です。
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
【多喜山城②】栗東市
2019年2月3日(日)、
主郭北側から
東側へ向かう
この付近へ来ると土塁っぽいですな。
東虎口へ来ました
土塁に挟まれた通路
折れ曲がる
さらに折れ曲がる
画像はイマイチだが、
縄張り図では、枡形がしっかりとわかりますね
土塁の上に登る
右上が櫓があったとされる土塁
穴蔵を見下ろす。
四角形の土塁に囲まれた窪み。
画像では分かりにくいですね。
縄張り図で想像してください
米原市の鎌刄城では、北端部に半地下式の礎石建物が検出されていて、後の天守の先駆けともいうべき櫓があったと推定されてる。
こちらも同様に櫓台の下の穴蔵かもね。
山頂部から主郭を見る
山頂に石が積まれていて222.9mと書いてある。
栗東市付近の平地は約100mなので比高差120mの山です
主郭北側へ移動
こちらの土塁はちょこっとわかりやすいかな?
解説板
織田信長軍が築いたそうです。
敵は伊賀・甲賀に逃げ回るが、隙あらば襲ってきたりする佐々木六角氏。
誰が城代になったか、不明のようです。
近江の山城の本としてはバイブルとも言うべき
『近江の山城ベスト50を歩く』
の縄張り図、
現地の縄張り図と
ほぼ一緒なのですが、
よく見ると東虎口と西虎口の表示が逆!
当然ながら現地の縄張り図の方が正しい。
近江の山城ベスト50の本、所々このような間違いがある。
ちなみにこの本は今年の春に最新版が出ました。
この間違いは訂正されてると思うのだが…
野洲川、三上山を見る
県内一の河川。
西虎口に戻った
普通の人はこのまま石段を降りるのだが、変人の我が輩は
再び東虎口に引き返し、
東側から下山することにした
羊歯が密生!
なんとか登山道あり
段々曲輪や堀切、竪堀が無いか左右を見渡しながら下るが、
イマイチわからない
東側は六角氏の本拠の甲賀方面なのでこちらの防備が厚いはず!
土塁かな?と思って眺める
池です。
たぶん農業用だと思う
薮を掻き分ける
田んぼに出ました
登山口を振り返ってみる
登山口の目印として枝を2本、木に立て掛けて置いたので、
挑戦したい人はどうぞ!
今、登った日向山を見る
旧東海道をのぞむ位置にあり、
湖南地域と甲賀郡地域の境目を見張る城跡ですな。
以上おしまい
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深夜高速バス、
現在、御在所サービスエリア通過。
明朝、仙台駅に到着予定。
百名城スタンプ3つ押すぞ!
まもなく車内消灯。
では、お休みなさいませ。
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
【多喜山城①】栗東市
2019年2月3日(日)、
日向山古墳から北へ回り込む
11時21分、登山口。
竜王宮の鳥居
左手に竹薮
入るな、ということなのであきらめる。
721段の石段を登る
資材を運ぶレールのようです。
この貨車、子供なら乗れそうだが…
一億円のふるさと創生事業で石段、レール、公園を整備したそうです。
370段目
この踊り場は、古墳なら墳丘の1段目かな…
曲輪跡かも?
家族連れの後ろを追いかける
ハイキング、地元の人の散歩として活用されてます。
また鳥居。
古墳なら段丘の二段目。
城跡としては三の丸の下かな?
電波塔か変電所か?
このような施設は削平地に造られることが多いので曲輪跡だと思う
曲輪下で家族連れが休憩してるので追い越す。
主郭手前の曲輪。
二の丸と名付ける
最後の急斜面を登ると
三つ目の鳥居が見える
麓から約15分です
登りきると
石垣の一部。
石垣を越えると主郭。
内部の右手を見ると
石垣の内側の土塁との間が堀状になってる。
先ほどの二の丸南側の腰部から折れ曲がって主郭に入る、いわゆる枡形虎口の通路ですな。
二の丸の南側に戻り、
折れ曲がりをたどってみた。
二の丸から主郭へ
南側の通路を進む
折れ曲がって主郭に入る
721段目の標識、ここにたどり着く。
ここが主郭の入り口で、門があったかも?
現地の縄張図に加筆した。
本来の登城道は、日向山古墳があった墓地の奥から登り二の丸南下の腰曲輪を通って主郭虎口に入る。
これがいわゆる大手道だった、と思う。
妄想です…
無視してください。
湖南アルプスを見る
いつか縦走しなければなるまい
南側の低い土塁を進む
と言ってもどこが土塁?
修行が足りない初心者マークの我が輩は認識できない。
竜王宮に参拝する。
竜宮の池
どんな干ばつでも水が絶えたことないらしい。
山頂なのに不思議ですな。
その②に続く
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
昨日、健診受けた。
血圧が異常に高かったので急きょ、眼底と心電図検査を追加で受けさせられた。
今年もまた病院から出頭要請が来るだろうな…😥
でも、無視して拒否するつもりです😁
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
【日向山古墳】栗東市
2019年2月3日(日)、
10時35分、
またしても手原駅です。
駅前に「東経136度の…」モニュメントがあり、
地名由来が書いてある。
手の赤ん坊、手が孕ませた村が手原の由来。
手原は、手孕村。
女性が、その身体に男性の手が接触したのが原因で孕み、片手を産んだという説話による。
ま、あくまでも説話、伝説です。
再び、稲荷神社。
「手原ベンチ」がユニークですね。
地名由来と関連付けてます。
ただし、こちらは
歌舞伎の「源平布引滝」で、
子供を産んだのは手だけだと偽り、助けた
木曽義仲の母の話。
転じて、地域の子供を見守る活動に結びつけて設置されたようです。
境内の端っこに
「赤坂山記念碑」
南のほうに赤坂という地区があるのでその付近に赤坂山があったのでは?
江戸時代より手原地区の共有山として管理していて、地区の開発や財政に役立ったということで、記念碑が建てられたようです。
門柱が2本ある。
明治時代になって建てられた厚進学校→手原小学校の校門の門柱。
現在は手原駅の北側ある葉山小学校に統合されました。
ブログで、志津地区、岡地区を紹介してきたが、今回の手原地区も同じく地元の人の郷土愛というか意識に脱帽です。
我がひこにゃん市も見習うべきだが…
旧東海道を進む
行者堂。
「道標」
上鈎←手原→小野(?)
前回、街道歩きした時にこの道標を見逃してる。
街道歩き、見落としがあるので何度も歩くべきですな。
11時00分、
再び「六地蔵一里塚」
旧東海道はここの分岐で和中散本舗の方へ向かうが、
今回は分岐を右方向へ行き、先に見えてる山に登ります
公園に親子狸?
NHK朝ドラ「なつぞら」の後は、信楽地区が舞台となる「スカーレット」が始まります。
楽しみですね。
公園と書いたが
『名勝大角氏庭園』の表示がある。
前回紹介した和中散本舗の裏です。
庭園裏の土塁にそそられます。
これは庭園の築山ですよ。
でもどうしても土塁と思ってしまう。
病気です…
旧和中散本舗バス停
「こんぜ(金勝)めぐりちゃんバス」が走ってるが本数が少なすぎる
郵便局から山を仰ぎ見る
11時10分墓地に来ました。
手原駅から約35分かかった。
節分だからなのか、墓参りする人が多かった。
『日向山古墳』にっこうやまこふん
どうしても「ひゅうがやま」と読みたくなる…
説明板の前に駐車されてるのでうまく撮影できない。
墓地の裏山に古墳。
日向山古墳は、
円墳で、片袖式の横穴式石室がある。
盗掘されてるが、6世紀頃の有力氏族の墓と考えられている。
古墳の上に登りました。
墓地を見下ろす
古墳と墓地が一体化してるのがいい。
石室への入り口
こりゃダメですな
次回は山に登ります
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今年もまた鰻とスイカ、食べなかった
うーん…
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
【旧東海道寄り道⑥】和中散本舗
2017年5月28日(日)、
12時59分、
『東海道一里塚』碑
現在、六地蔵という地名ですが、本来は「梅の本村」でした。
江戸時代に大きな梅の木があったのが由来。
この梅の木の木陰で薬を売ってたのが和中散。
石碑の反対側には
「和中散のまち六地蔵/東へ至石部の宿」
草津宿と石部宿の中間に位置するので間の宿として旅人の休憩場所となり、梅ノ木立場として栄えた。
その名物が和中散でした。
街道の右手に
『和中散本舗』
国重要文化財 大角家住宅。
寛永年間(1624~)に建てられた。
吊り看板には
「根本梅木 本家 ぜさい」
ぜさいは屋号
屋根は普通の桟瓦だが、
白い卯建壁の上の屋根は本瓦葺きになってる
庇の下の柱は一本おきに外されるようになっていて、
あげ戸を上下させ、茶釜を備えて旅人にふるまったそうです。
左手の切妻の四脚門と白い袖塀が、本陣への入り口
それまで基本的に予約無しの見学はダメだったが、今回から春と秋の特定の日曜日に限り特別一般公開されるようになった。
なので、やって来たのです。
入場券は400円也。
中に入ると土産物が売っていて、
ボランティアガイドさんが解説してくれました。
「わちうさん(わちゅうさん)」の額
『本元家梅木村元祖、
かな書看板他に類なし』
和中散は、同業者が五軒に増えたので区別するために
本家本元だと主張したのです
本家は「是斎(ぜさい)」と称し、大角氏を名乗る。
元和年間、京都の名医半井(なからい)朴養のむすめをめとった。
その時に引出物として和中散、奇妙丸(小児薬)などの製法が贈られたので売薬を始めた、という。
慶長16年、徳川家康が近江永原に来た時に腹痛を訴えたので、和中散を服したらたちまち快癒。
一躍有名になったそうです。
近江永原といえば、野洲市の永原御殿が徳川将軍専用の宿泊所で朝鮮人街道近くに設置された。
御殿だが、その造りは城跡と言ってよい。
いつかアップします。
天井にツバメさんの巣。
巣の跡がいくつもあり、歴史が感じられる。
いいですね。
入り口の部屋、
薬を量る天秤はかり、がある。
天井の太い梁が凄い。
最初は薬屋専門だったが、隣に座敷を増築し、「梅の木小休み本陣」と称して天皇・公家・大名などの休憩所になった。
庭に明治天皇、皇太后様が休憩された記念碑が建てられてる。
右横に式台、「本陣玄関」
屋根は千鳥破風で、軒先が長めの庇になってる。
庇の下の欄間の彫刻には亀、松、梅などが緻密に描かれてる
四脚門の内側
部屋の奥へ進むと由緒ありそうな屏風が並ぶ
突き当たりはひときわ高い上段の間、
玉座と書いてある。
中央に草履が置いてあるが、天皇はこれを履いて庭の築山に登られたそうです。
襖絵
国指定名勝庭園
奥に見えてる山が日向山(にっこうやま)で借景として取り入れている
小堀遠州作と伝えられる
カキツバタかな?
ちょうど見ごろでございました。
入り口の反対側の土間には
『木製製薬機』
車輪を2人で回転させて石臼を廻し粉薬をつくった。
国内で唯一現存という貴重なもの。
外に出ました。
旧東海道を挟んで反対側に屋敷あり。
本瓦葺きで、長屋門のような造りです。
こちらは
『大角家住宅隠居所』国重文
家族は本陣に住むわけにはいかないので、こちらを住居とした。
現在もこちらに住んでおられるのかな?…
以上です。
公開初日だったので次から次へと見物客が来てました。
ただし、アクセス悪い。
バス便少ないから、手原駅から約25分歩くか、
草津駅からレンタサイクルか、
タクシーに乗るか、
この三択ですな。
駐車場はありません。
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
地蔵盆です。
子供の頃はお供えのお菓子や果物もらえるので嬉しかった。
しかし、地蔵盆になるといよいよ夏休みも終盤、宿題をやらねばならなくて憂うつになったものですわ…
馬《●▲●》助ヒヒーン♪
【旧東海道寄り道⑤】瀬田城跡
2018年05月12日(土)
龍宮と書かれた鳥居
後に1408年、俵藤太の末裔が供養のために雲住寺を建立。
さらに1440年、瀬田橋の掛け替えの時に龍王宮秀郷社が創建され、秀郷と乙姫が祀られた。
唐橋の掛け替えが行われると、古い橋脚が神木として秀郷社に祀られるそうです。
境内に『橋守神社』石柱が横たわってます。
「明治37年6月、之を建てる」と彫られてるので、以前は橋守神社だったようですな。
隣に
『雲住寺』
境内に道標がある
ちょっと読めない
「……のみやみち」
なんとかの宮道?
『神代桜』
1922年、日本で第一号の天然記念物に指定、と書いてある。
凄いですね。
さらに南へ
さざなみ街道、夕照の道沿いに高いビル
その足下の石垣に
『瀬田城跡』石碑
車の通行が多くて危険なため石碑に近寄れないので、カメラのズームで見てます。
石碑の解説をちょこっと読んでみる
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勢多城は山岡城とも呼び、永享元年(1429)山岡信濃守景房が築く。
後に三井寺を築き光浄院に葬る。
その後九代美作守景隆に至る。
世々、勢多に住す。
景隆、織田信長に仕え3万石を領す。
天正10年、明智光秀が信長を本能寺で殺し安土城を取らんと欲し景隆を味方にせんものと使者を立てて勧告す。
景隆曰く、義を執りて応ぜず、橋を焼き西岸の舟を集めて之を絶つ。
光秀大いに困む時に、徳川家康堺の浦にて光秀の乱を聞き東に帰る途通ぜず宇治より間道を経て勢多に至る。
景隆弟景祐と共に前導して田上山より信楽郷に達せしも土寇ありて路を遮る。
景隆、之を討ち破り徳川の安路を計る。
後に宝暦九年(1759)龍安寺西源院天寧和尚、隠れたる忠誠の勢多城最後の城主従五位下山岡美作守を偲び膳所城主本多下総守康恒に進言す。
康恒、勢多城跡に一宇を建て臨江庵と命名す。
現在の臨湖庵、之なり。
茲に遠祖の功業を偲び山岡市一族を碑を建立す。
昭和40年10月17日
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※なんとか書き取ったが、見にくい所もあるため、一部間違ってるかも?
現在の臨湖庵が、この高いビルで
『グラン スイート近江臨湖庵』というマンションになってます。
城主だった山岡氏は秀吉に仕えるが、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に内通した疑いで領地没収された。
しかし、徳川家康に仕え常陸国古渡藩一万石の領主となるも、跡継ぎがいなくて改易。
その後は、旗本として仕えたそうです。
瀬田城に関してはこの石碑のみで、
城の遺構は他にない。
どんな城だったのか?さっぱりわかりません。
ところで、
我が輩がもし家康だったら、
大坂城の豊臣家を仮想的とするなら、
瀬田川の西の膳所よりも東の瀬田城付近に城を築いたと思う。
瀬田川は天然の水堀、西から来る豊臣軍をここで食い止められる。
明智光秀が瀬田唐橋を越えられないために安土城になかなかたどり着けなかったのがなによりの証拠。
なのに、なぜ家康は膳所に城を築いたのだろうか?
不思議ですよね。
いざというときは、膳所城に敵を引き付けて、川の対岸から攻撃する。
つまり、膳所城は捨て石か?
うーん…
馬《●▲●》助ヒヒーン♪"