【旧東海道寄り道④】矢倉城跡

2018年5月12日(土)、草津市

旧東海道を矢倉南交差点へ向かう
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当時、草津市南部は工業団地、大学の誘致などで一気に都市化が進んだ

現在の南草津駅付近に、若い頃勤務してた会社がありました。
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その頃の痕跡が残ってないか、付近を徘徊して調べたが、皆無でした。

この地域はホントに大きく改変されてしまった。


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矢倉小学校。

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ここは道も学校も昔から変わってない


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草津駅からバスで通勤してたが、深夜になるとこの旧東海道を歩いて草津駅まで時々帰りましたよ。

 

矢倉交差点にこんもりとした森がある。


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稲荷神社です。


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境内の参道沿いに


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これは土塁の痕跡か?

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実はここに『矢倉城』があったらしい。
誰がいつ造ったのか、不明。
由緒も何もかもわかりません。

ともかく稲荷神社に城跡があったそうな…


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街道沿いの重要な場所なので城があっても不思議ではない

 

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

【鈎(まがり)の陣、陣所跡】栗東市

2013年1月26日(土)
滋賀県教育委員会主催の連続講座に参加した。
その時の記録ですが、6年前のことなので記憶が薄れてる。
間違ってたらごめんなさい。

JR草津線手原駅


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旧東海道を西へ向かう


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100名近い参加者が練り歩きました。

葉牡丹が植えられてますが、とにかく猛烈な寒さで震えてました。
短い距離しか歩かないので、身体が暖まらない…


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『九代将軍足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地』


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義尚は日野富子の子。
応仁の乱で幕府の権威が失墜したので権威を取り戻すために
幕府に反抗していた近江の六角氏を征伐すべく自ら大軍を率いて栗東までやってきて陣を敷いた。
これが、「鈎の陣」
しかし、六角氏を征伐する前に義尚は陣中で病死、25歳の若さでした。

まさに若気の至り。

佐々木六角氏はのらりくらりと逃げ回って近江守護を維持しました。

 


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上鈎東交差点から西へ向かい
国道1号線の高架下西側に。



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             A

↑上鈎寺復元図のA地点からB地点方向を見てます

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ここが鈎の陣所跡と言われる。

 

竹薮の向こうの永正寺へ進軍する…

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『永正寺』


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本堂、


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見てござる

 

解説板
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土塁


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土塁の外側の堀

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藪方向見る

 

土塁の上から電車見る。


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つまり、電車からも陣跡をしっかり見ることできるわけです。

スマホなんか触ってないで、車窓から陣跡を見てほしいものです。

 

寺を出て駅へ戻ります。

小さな水路も堀の痕跡だとか?

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向こうにカップ麺のまんぷく食品の工場が見えてます。

最近、新工場ができたおかげで
栗東市の財政が豊かになり、
今年は国からの地方交付税不要の自治体になったそうです。

財政赤字の我がひこにゃん市としては羨ましいわ!

 

表札、


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堀池さん…

 

講座資料


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今回、永正寺付近の遺構を見学した。
発掘調査されて13世紀以降の遺物が発見された。


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しかし、絵図は16世紀後半のもの。
永正寺は陣跡に建てられたが、現状は天正時代以降、豊臣秀吉時代に代官所が設けられた後の姿なのでほんとうにこの土塁や堀が鈎の陣所の時のままなのか?
なんとも言えないそうです。

 

以上おしまい。


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

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↑この画像は、この時一緒に参加した某T氏が撮影しブログにアップされた。
寒そうにしてる我が輩の後ろ姿が写ってます。
ちなみに、このリュックは20数年使用したが、ついに先日廃棄しました。

帽子も破れたので新しいのに変えた。

 

この頃はまだ現役で、参加者のなかでは我が輩は若手、新人の部類でした。

日曜日になると滋賀県の探訪講座に参加して諸先輩の豊富な知識に触れるのが楽しみだった。

というか、毎日が日曜日で、平日の講座にも参加されてる諸先輩が羨ましかった…


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

 

【草津市志津地区探訪③】岡本町~山寺町~小槻大社

2017年06月03日(土)、
JRハイキングに参加した。
草津市東部の『志津』地域を巡った。

 

志津小学校から東へ向かい
名神高速道路を越える。


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こちらは岡本町。

 

交差点の角に
若宮神社


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創建不詳。
岡本町の鎮守だが、江戸時代の記録によると小槻神社の御旅所だった、とされる

草津


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水が流れてない…


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岡本町から北へ向かうと山寺町

 


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大平橋を渡り東に向かうと
『山寺城跡』


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解説によると、
北側は土取りで低くなり、
西側の土塁は消滅。
方形の館城で、東南隅に櫓台あり。
隣にあった楽音寺と一体だった。

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竹やぶになってる。
土塁のような高まりがあるが、中に入るわけにはいかないので、あきらめる。

『十二将神社』


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祭神も創建も不詳。


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織田信長の焼き討ちで、由緒書が消滅したのかな?
1687年に村民が薬師堂を再建し、同時に神社も再建された。
金勝寺関連の楽音寺跡地と言われ、発掘調査をしたそうです
なぜか、神社の境内に入ってない…

 

『祥光寺』


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創建1450年
佐々木六角久頼の菩提寺として建てられた。
法名が寺の名前になった。


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キョーラク会社の敷地に佐々木高頼の塚跡があったが、久頼は高頼のお父さんです。
だから、祥光寺を建てたのは高頼かもね。
伽藍は天正年間の兵火で焼失したが、本尊だけは村人が救出したそうです。

「薬師堂」


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中に入りました。


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本尊の薬師如来坐像(南北朝時代)は楽音寺の本尊だったそうです。


城跡の北側に
『北谷古墳群』


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名神高速道路建設工事で発見された。


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1号墳と11号墳が古墳時代前期、
それ以外は後期古墳。
11号墳は前方後円墳の可能性あり。

こちらも自分的には城跡に利用されたのでは?と思う…

志津地区から離れて北上すると
『小槻大社』


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ややこしいですが、先に訪れたのが小槻神社
こちらは小槻大社。
栗東市下戸山。
創建は不詳。
栗太郡の豪族小槻山君が祖神を祀ったのが始まりだとか?


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境内に入ると
『小槻大社古墳群』


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北谷古墳群などとともに小槻山君関連の古墳と考えられる

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この石は古墳の石室の一部かも?

『本殿』国重文


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解説によると
小槻山公は、大化改新栗太郡司となり、平安時代には平安京の実務官僚の頂点であった官務家として栄えた。
中世には青地荘の領主青地氏が1519年が建立した。
つまり、戦国時代の建物なのだ。
内陣の宮殿は1281年というから鎌倉時代ですね。
宮司宇野茂樹氏が文章を書かれてる。
旧東海道歩きで岡村城跡に立ち寄った時に述べたが、城主の宇野氏の子孫かな?

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ここにも石室の一部

古墳の上に「龍王社」が建てられてる。


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この石組も石室関連か?

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以上です。


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祥光寺の前の「山寺会館前」バス停から草津駅に帰りました。


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志津地区の人は、定期的に講座をおこなったりして、地域の史跡・歴史に関心が高いようです。

草津市域は、都会化が急激に進んでるだけに志津地域の人が自分の土地の歴史を大切にする気持ちは非常に貴重だと思います

羨ましいです

 

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

昨日は、青春18きっぷ4回目。

曽根駅から西国街道を歩いて姫路城を目指した。

だが、猛烈な暑さのため

途中でダウン↓

御着城播磨国分寺を探索して打ち止め。

真夏の歩きはやっぱりキツイわ😥

 

歩きの途中、水・コーラ・ガリガリ君・缶ビール飲みまくったら

お腹が姫ぇ~をあげました‼️

 

御着駅で服を着替えてTシャツ着たら、

電車のなかは冷え冷え

いや冷えすぎ!

寒くて寒くて震えましたよ

おかげで、体調むちゃくちゃ😱


馬《●▲●》助ヒヒーン♪
"

 

【草津市志津探訪②】小槻神社〜

2017年06月03日(土)、
JRハイキングに参加した。

西方寺の東に『小槻神社』おつきじんじゃ


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石の鳥居は、大津市大鳥居町から石材を切り出し大戸川を下り瀬田川→琵琶湖→伯母川を遡ってここに運ばれた。

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石段を登る


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ここは部田(へた)古墳群で、古墳の石室に使われていた石材を石垣に利用した。


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「本殿」

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創建年代は不明。
貞観2年(860)に正一位の宣旨を賜ったという記録がある。
日本の数学のルーツとされる小槻山公ゆかりの神社。
なお、小槻山公今雄を祭神とする雄琴神社(大津市、栃木県)に廟がある。
大津市雄琴神社は「おごと」
栃木県壬生町雄琴神社は「おこと」と読むそうです。
いずれも栗太郡の在地豪族「小槻山君」ゆかりの神社で、青地氏や壬生氏は小槻氏の系譜に繋がる。

ちょっとややこしいが、前回岡村城跡で触れた小槻大社と小槻神社は別の神社です。
どちらも小槻山君関連の神社ですが…

 

今回の探訪は、栗太郡志津地域の豪族小槻氏ゆかりの場所を巡ります。

 

小槻山君は第11代垂仁天皇の皇子が祖だと言われてます。
青地氏は小槻氏の一族か家臣の家柄で、後に佐々木氏から養子を迎えてるので
源氏と称するようになりました。


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小槻神社から志津小学校へ移動する


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志津という地名は消えたが学校の名前に受け継がれて地域の絆として歴史を背負ってます。


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空堀ではないか?と思って見てます


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土塁かな?と思って見てる…

 

実は、現在の志津小学校校舎の付近が青地城の本丸とされる。

学校の敷地に入りました

草津市教育委員会の許可を得てます。

個人だとなかなか入れません。

『青地城主之碑』

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五輪塔ですね。城主の墓。


「解説板」


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鎌倉~室町時代、青地氏の居城。
鎌倉時代中頃、近江守護佐々木定綱の孫基綱が青地氏の養子となりその子忠綱が築城した。
城跡の規模は方二町、丘陵に3つの平坦面がある。
周囲に堀、土塁を巡らし、草津市内では唯一の本格的な中世城郭跡。
支城の役割として周囲に小槻神社無量寿寺、祥光寺などが配置され、家臣の館が取り巻いてた。
永正4年(1507)6月24日、細川澄元と三好之長が青地城に立ち寄った記録がある。
織田信長の近江侵攻では、青地氏が六角氏についたため廃城になった。

家紋が四つ目角なので、佐々木氏系だとわかりますね。

「青地城山碑」

石碑の背後は
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間違いなく土塁遺構。


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ぐるっと巡ってます。


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小学校の敷地を下に見る


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本丸でした。

 

小学校の正面通路。


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城跡としてみるなら大手の土橋といった雰囲気。


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通路の左は池、


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通路の右下に駐車場。

本来は駐車場も含めて通路の左右は水堀だった。
なお、この通路がもともと橋だったかどうかはわからない…


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通路をふりかえって見る


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小学校が小山にあるということがわかりますね

平地の城だが、周りの湿地や河川が
自然の防御となり、近くの寺社は支城の役割を果たした

市民センターで講義を受けた時に
縄張り想定図を撮影した


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この図から察するに
空堀かな?と思って眺めたのは切り通し。
城跡石碑は土塁に囲まれた2郭。


土橋のような正面通路は学校のために造られたようで、本来は無かった、

ということになりますな。


その③に続く

 

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

近江高校、負けました。

甲子園でエラーが多いと勝てませんな。

ま、東海大相模と初戦で当たったのが間違い!

くじ運が悪かった。

と、思うしかない…

 

馬《●▲●》助ヒヒーン♪

【草津市志津探訪①】無量寿寺~西方寺

"2017年06月03日(土)、
JRハイキングに参加した。
草津駅に集合し、
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草津市東部の『志津』地域を巡った。
『志津まちづくりセンター』青地町

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この地域の中心的な施設。
昼食休憩し、講座を受けた

ちなみに、草津市志津という地名はない。
志津小学校があり、志津学区になってる。
本来は栗太郡志津村で、合併で草津市の一部になった。
現住所では草津市追分、青地、山寺、岡本、馬場などの町がその範囲のようです。
この地域の総称ですな。

午後の探訪、
無量寿寺」

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創建は舒明天皇12年(640)5月。
天文年間1532年頃に再建された。

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『青地城』の西側を固める重要な位置をしめたと考えられてる

この後、巡る寺や古墳群はみな『青地城』の支城群とされる。

青地城に関しては、次回以降説明します。


境内に
「宝篋印塔」

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正安四年(1302)の銘が刻まれてるので鎌倉時代後期とわかる貴重な塔。
花崗岩製。

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詳細は解説文を読むべし。

 

この付近は丘陵になっていて
無量寿寺古墳群」。

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墓地の造成工事中に6世紀中頃の横穴式正室のある古墳が見つかった


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墓地に「北川静里」の墓

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青地町出身の学者で、幕末から明治にかけて博物学儒学、医学、歴史学を究め、県内各地の小学校解説に尽力。


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第2の近江聖人と呼ばれた。

ちなみに、近江聖人と言えば高島市のあの人です。
誰なのか?わからない人は調べるべし!

 

南隣の西方寺の墓地に移動

「楚活禅人(水野忠隆)の墓碑」

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水野主膳忠隆は、伊勢国菰野(こもの)藩の藩主土方雄豊の実母の兄・伯父。
実母は、前田利家の子。
菰野藩は、三重県滋賀県の県境にあり、12000石。
近江の青地に飛地があり代官所が設けられ、地元の青地氏が代官を務めた。
水野忠隆は余生をここで過ごし没しました。

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五輪塔に元禄11年4月2日と刻まれてる

 

 

「西方寺」


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延喜12年(912)創建。
本来は志津小学校前にあった。
1653年に現在の地に移された。

「西方寺鐘楼」

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慶長9年(1604)、建仁寺塔頭常光院に建立され、明治18年京都市左京区の壇王法林寺に移築。
そして、昭和37年に西方寺に再移築された。


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その②に続く

 


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

暦の上では秋になりました。

実際には今が一番暑い!

秋の実感は無いが、1つだけ秋を感じられることがある。

それは日没!

19時台だったのが、ついに18時台に突入しました。

日没が早くなると史跡巡りする時間が短くなるということなんですよね。

これから冬は東へ行けば行くほど日没が早くなる。

なるべくなら西へ行くべきですな。


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

【旧東海道寄り道③】岡遺跡

2018年9月8日(土)

岡村城跡からさらに東へ

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キョーラクという会社が見えてきました

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こんもりとした場所がある

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さてこれは城跡か古墳か?

答えは、どちらでもない



『古代栗太郡衙跡 岡遺跡』

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昭和61年の圃場整備にともなう発掘調査で発見された。
溝と大規模な建物群が発見された。

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奈良から平安時代の遺跡

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この田んぼの下に遺跡が保存されてるのかな?


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田んぼのそばにも解説板

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三上山方向を見る

 

隣に神木がある。

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小槻大社関連の社跡のようです

 


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反対側のキョーラク会社の敷地内に看板あり

『佐々木高頼の塚跡』

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高頼は近江守護佐々木氏第22代目当主。
いわゆる六角高頼です。


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室町幕府九代将軍義尚と対立し攻められた。
近江守護京極氏との抗争にも耐え、六角氏の全盛期としたため英君と称される
晩年は青地城主として隠居し、この地に埋葬された。
高頼塚は昭和初期の開墾で無くなった。
だから、地元の有志の方がこの塚碑を建てられたようですな。

こうしてみると、岡地区は交通上も歴史上も重要な地域だったことがわかりますね。


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帰りにもう一度、地山古墳を見る

約30分の寄り道、

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街道に戻りました


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

近江守護といえば、京極氏と六角氏がいて互いに争ってましたが、どちらも本姓は佐々木氏。
近江佐々木源氏で、高島氏・朽木氏・大原氏なども同族です。

誰もかれも佐々木氏だとややこしい。

区別がつかない。

そこで、湖西の朽木に本拠があった佐々木氏は朽木の佐々木氏→朽木氏

京都の京極に屋敷にあった佐々木氏を京極の佐々木氏→京極氏

京都の六角堂付近に屋敷があった佐々木氏を六角の佐々木氏→六角氏

と、他の一般の人が呼んだ。

だから、戦国時代はどの家もみんな佐々木氏と称してました。

間違っても自分の家を京極家、六角家などと自称してない。

京極氏と自称するようになったのは戦国時代の終わり安土桃山時代以降ではないか、と思ってます。

根拠は何もないけどね…

 

Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

同様に『藩』も、江戸時代に彦根藩膳所藩、桑名藩などという呼称は無かった。

 

近江佐和山の井伊家、彦根の井伊家、

近江膳所の本多家、

伊勢桑名の松平家

などと呼ばれていた。

 

一般に藩と呼ばれるようになったのは明治維新で中国式の呼称として『藩』を用いるようになった。

でもすぐに廃藩置県となるので、使用された期間は短い。

 

何々藩と頻繁に呼んでるのは、現代の我々なのです

 


馬《●▲●》助ヒヒーン♪

【旧東海道寄り道②】地山古墳、岡村城跡

"2018年9月8日(土)、

旧東海道歩き、ちょこっと寄り道

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岡交差点で右折

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金勝川を越える
左前方の田んぼの中に小山が現れる

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さて、城跡か古墳か?

というか、
手前の田んぼの左は刈り取る前、右は刈り取り後。

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昔は9月初旬に稲刈りなんて、ありえなかった。

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畦道を進む
『地山古墳』ぢやまこふん

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帆立貝形の前方後円墳
墳丘から形象埴輪が出土。
墳丘部は未調査。
築造時期は5世紀前半。

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後円部東側


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草深いので、登るのはやめた…
北側へ向かった
前方部の隅の痕跡を確認したかったがよくわからない
あきらめました

ちなみに滋賀県は完全な前方後円墳が以外に少ない。

前方部が中途半端な帆立貝式や方墳、円墳が多い。

なぜなのか、よくわからない…


道の左手に

『岡村城阯』


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宇野筑後守屋敷跡

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解説によると、

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江戸時代以前の東海道に面し通行を監視した。
小槻大社お旅所、若宮神社西側の高台にあった。
初代城主は、田上の関ノ津城宇野源太郎の子で弥三郎家永と言った。
家永は室町幕府初代将軍足利尊氏に属して戦功をあげて岡の地を与えられた
1340年頃に築城されたようです。
子孫は代々小槻大社の榊本衆を務めている

 

小槻大社は近くにあります。
以前、JRハイキングで訪問したことあるので後日アップする予定です。

 

岡村城跡・屋敷跡など遺構なし、現在は田んぼ。

 

さらに東へ向かいます

 

続く~


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

 

次の週末三連休は台風のために天気悪そう!

 

困ったもんやわ


馬《●▲●》助ヒヒーン♪