京丹波町【須知城】その②

2019年6月23日(日)

三日月型の堀切を越えると


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↓高石垣が見えてきた


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前方に突然、まさに突如として
高石垣出現!

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主郭の高石垣。
突然現れると圧倒されますな。


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それまでの疲れも吹っ飛びます。

石垣の右手、


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北側へ回り込む

斜面になっていて危険なのでロープがあります。


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なんとか、滑り落ちないように用心して主郭に入りました

『主郭』です

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琴滝への案内板


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案内板の背後は土塁。
土塁の外側が先ほどの高石垣


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土塁の上からおそるおそる石垣を見下ろす

 


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主郭は広いが、別に何もなし。


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中央に城跡看板があるだけ。


明石というのは西側の集落のことです。
須知城は、地元の豪族須知氏が築城したのが始まり。
某サイトによると、須知氏は近江国周智郡から移った、と記載してあったが、近江国周智郡という郡はない。愛知郡ならあるけどね。
遠江国周智郡の間違いだと思う。

森の石松で有名な森町がある郡です

須知氏は南北朝時代南朝に属し、その後、細川氏に従う。
信長の丹波攻めでは明智光秀に味方したが、その後離反したため、結局明智光秀に攻められて落城しました。
光秀が支配する拠点の城として存続したそうなので、現在の遺構は須知氏時代か、それとも光秀時代か?
我が輩にはわかりません。


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眼下に京都縦貫道の丹波インターが見える。
山陰街道はインター付近を通ってるので、この後歩きました。


主郭の西の端に来ると石がゴロゴロ。


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ここが西の虎口。

看板は「明石」と書いてあるが、
「主郭西虎口」と、書き換えてやろうか、と思いましたよ!


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枡形のように折れ曲がって入るようになってると思うが、イマイチ不明瞭。
要するにわかりません


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主郭の西隣の郭から主郭を見る


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隣の郭は、
『西郭2』


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こちらも同じく西の端に石積虎口がある。


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西郭3を見る


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西郭3から西郭2の石積を見る


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さらに西へ進む


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その③に続く


Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ

台風が通過しから、恐ろしい猛暑となった。

少し歩いただけで汗が吹き出す

着替え持ってきてるが、汗に追いつかない。

帰りの電車は、汗まみれで乗るから

周りの皆さんに迷惑かける

 

この時期の街道歩きは、ホントにツラい。

早くもバテバテで、冷たいビール以外何もいらない😞

 

 

馬《●▲●》助ヒヒーン♪