明智光秀本陣、【恵解山(いげのやま)古墳】

2019年6月01日(土)
 
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↑前回紹介した境野1号墳は地図の一番下の付近。
 
【恵解山古墳】はその北に位置する。


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長岡京市の解説によると、
古墳時代中期(今から約1600年前)に造られた前方後円墳
古墳の大きさは全長128m、後円部の直径約78.6m、前方部の幅約78.6mで、乙訓地域最大の規模を有している。
古墳の周囲には幅約25mの浅い周濠(しゅうごう)があり、周濠を含めた古墳の全長は約180mに及ぶ。
 
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発掘調査すると、多量の鉄製武器が発見され全国的にも珍しい、とわかった。
国史跡に指定された後、綺麗に整備されて現在は史跡公園となり、子供の遊び場になってます。
 
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この古墳が仮に光秀本陣の『御坊塚』だったと仮定して、
太閤記に記載された5000人の兵を収容できるのか?
 
長岡京市のシンポジウムでは、
ブラタモリで一躍有名人になった
京都高低差崖会崖長の梅林秀行さんが、花見の時にシートに座る人の数を基に計算された。
その結果、
約2308人という数字でした。
五千人の半分も入れない。
 
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
根拠となった計算の仕方に問題ありそうだし、そもそも太閤記の記述の真偽もある。
それはともかくとして、
自分的には、境野1号墳と恵解山古墳の2つに分けて陣を敷いたのでは?
と、思えてくる。
玉虫色の解決ですが…
 
さらに、
 
梅林さんが、昔の資料を調べたら、
整備する前は長方形の形だった、という。
つまり、公園整備する前は古墳を陣城として改造された痕跡の姿が残っていた、
ということになる。
 
発掘調査では鉛玉が発見されてるので、城に改造されたのは間違いない。
 
ただし、城として改造したのは、
土豪の神足氏、あるいは四国の三好氏、
もしくは勝竜寺城主の細川氏
そして、山崎合戦の時の明智光秀
どの時代に改変されたかは、不明。
 
さらにさらに、
梅林さんは
大胆にも
恵解山古墳に6つの曲輪があったと、
推定された。
 
いやぁ、これはびっくりポンです!
 
会場内、撮影不可だったので曲輪の画像をここでアップできないのが残念無念。
 
梅林さんは城郭研究者ではないので、もらった資料にも縄張り図を掲載してくれなかった。
あくまでも大胆な推測図ですが。
 
いやそれより、
前方後円墳の公園整備する前に
城郭研究者の誰かが実測して、縄張り図を作成してほしかった、
 
残念極まりない!
 
現在の後円部は、いびつな形をしていて大部分が墓地になってます。
 
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曲輪の痕跡と見えなくもない
 
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↑後円部は墓地


恵解山古墳は、
戦国時代に恵解山城に改造された城跡としての価値も付加されて、より重要な史跡として見直すべきなのでは?

 


 
馬《●▲●》助ヒヒーン♪