明智光秀本陣、【境野1号墳】長岡京市
"2019年6月01日(土)
長岡京市のシンポジウム。
仁木氏の基調講演の後、
ディスカッションがあった。
ブラタモリで一躍有名人になった
京都高低差崖会崖長の梅林秀行さんが登場。
地形に詳しく話が面白い。
さすが、ですわ。
仁木氏が、
「どうして勝龍寺城は台地の上(現在のJR長岡京駅付近)に造らなかったのか?」
という問いに対して
梅林さんの解答は、
『集水場だったから』
なんか、答えになってないような…
光明寺断層の末端に位置していて水が集まる場所だったから、
という理由です。
Φ(*^ひ^*)Φ
信長は、家臣の城は山に造らせない。
必ず、水利交通に便利な低地に城を築かせた。
長浜城、坂本城、大溝城、北ノ庄城などなど。
だから、勝龍寺城も同じ理屈なのでは?
低湿地や水堀に囲まれた惣構えの城は、山城よりも意外に防備に優れてる、と我が輩は思います。
◯山崎の合戦で、
光秀の本陣というべき『御坊塚』は、従来「境野1号墳」と推定されてきた
現在はサントリー京都工場の敷地の中なので、立入禁止。
解説板あり
↓仕方ないので隣の墓地から様子をうかかった。
よくわかりません。
しかし、
近年は「恵解山(いげのやま)古墳」という説が有利になってます。
その恵解山古墳なんですが…
続く!
馬《●▲●》助ヒヒーン♪