【旧東海道寄り道③】岡遺跡

2018年9月8日(土)

岡村城跡からさらに東へ

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キョーラクという会社が見えてきました

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こんもりとした場所がある

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さてこれは城跡か古墳か?

答えは、どちらでもない



『古代栗太郡衙跡 岡遺跡』

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昭和61年の圃場整備にともなう発掘調査で発見された。
溝と大規模な建物群が発見された。

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奈良から平安時代の遺跡

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この田んぼの下に遺跡が保存されてるのかな?


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田んぼのそばにも解説板

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三上山方向を見る

 

隣に神木がある。

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小槻大社関連の社跡のようです

 


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反対側のキョーラク会社の敷地内に看板あり

『佐々木高頼の塚跡』

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高頼は近江守護佐々木氏第22代目当主。
いわゆる六角高頼です。


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室町幕府九代将軍義尚と対立し攻められた。
近江守護京極氏との抗争にも耐え、六角氏の全盛期としたため英君と称される
晩年は青地城主として隠居し、この地に埋葬された。
高頼塚は昭和初期の開墾で無くなった。
だから、地元の有志の方がこの塚碑を建てられたようですな。

こうしてみると、岡地区は交通上も歴史上も重要な地域だったことがわかりますね。


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帰りにもう一度、地山古墳を見る

約30分の寄り道、

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街道に戻りました


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近江守護といえば、京極氏と六角氏がいて互いに争ってましたが、どちらも本姓は佐々木氏。
近江佐々木源氏で、高島氏・朽木氏・大原氏なども同族です。

誰もかれも佐々木氏だとややこしい。

区別がつかない。

そこで、湖西の朽木に本拠があった佐々木氏は朽木の佐々木氏→朽木氏

京都の京極に屋敷にあった佐々木氏を京極の佐々木氏→京極氏

京都の六角堂付近に屋敷があった佐々木氏を六角の佐々木氏→六角氏

と、他の一般の人が呼んだ。

だから、戦国時代はどの家もみんな佐々木氏と称してました。

間違っても自分の家を京極家、六角家などと自称してない。

京極氏と自称するようになったのは戦国時代の終わり安土桃山時代以降ではないか、と思ってます。

根拠は何もないけどね…

 

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同様に『藩』も、江戸時代に彦根藩膳所藩、桑名藩などという呼称は無かった。

 

近江佐和山の井伊家、彦根の井伊家、

近江膳所の本多家、

伊勢桑名の松平家

などと呼ばれていた。

 

一般に藩と呼ばれるようになったのは明治維新で中国式の呼称として『藩』を用いるようになった。

でもすぐに廃藩置県となるので、使用された期間は短い。

 

何々藩と頻繁に呼んでるのは、現代の我々なのです

 


馬《●▲●》助ヒヒーン♪