講座、【令和】

2019年6月15日(土)
午後、長浜城博物館に行き、講座を受けました。
 
お題は、【万葉集と令和】
令和←スマホの予測変換で出てこない。
困ったもんレイワ!
講師の磯崎さんが、令和の令は良いという意味、令嬢の令です。
 
なるほど、令嬢か!
 
広辞苑へ、
【令嬢】れいじょう
『他人の娘の尊敬語。令愛』
 
Φ(*^ひ^*)Φ
令愛?
 
再び広辞苑
【令愛】れいあい
『他人の娘の尊敬語。令嬢』
 
Φ(*^ひ^*)Φ
同じ意味でした。
でも、令愛という熟語は初耳。
また一つ勉強になったぞ!
 
万葉集講座は人気無いのでいつも空席ありだが、
今回は令和に関する話ということで会場は珍しく超満員でした。
仕方ないので補助席に座ることになった。
 
元号「令和」の由来となったのは万葉集の巻五、
梅花の歌32首があり、その序文として大伴旅人が書いた文章から採用された。
 
その序文によると、
天平2年(730)、正月13日に大宰府の長官だった大友旅人の宅にみんなが集まって梅話の宴会を催した。
「時に初春の[令]月にして、気淑(よ)く風[和](やわら)ぎ、梅は…」
と、書いてある。
 
広辞苑へ、
【令月】れいげつ
『万事をなすのによい月。めでたい月』
『陰暦2月の異称』
 
Φ(*^ひ^*)ΦΦ(*^ひ^*)Φ
初春の良い月となり、風も和んだので宴会を催した、
詩を詠み、大いに語らい、和やかに飲みました、
というわけですな。
 
この梅花の宴に参加した人物は、
長官の大伴旅人の他に、次官、三等官などの役人はもとより、
筑前国筑後国豊後国壱岐国対馬国薩摩国大隅国など九州各地の官吏が参加した。
なぜか、肥後と日向の役人が見当たらないのは、大宰府の管轄ではなかったのかな?
 
818番の歌
「春さればまづ咲く宿の梅の花独り見つつや春日(はるひ)暮さむ」
詠み人は、
筑前守 山上大夫』
中国風に書かれてる。
山上は、有名な山上憶良
大夫は長官のことで、筑前国の長官という肩書。
大伴旅人とともに万葉集の編集をした山上憶良の歌です。
梅の花の宴の序文は山上憶良が書いたという説もあります。
 
講座では32首全部解説してくれました。
詳細は省略。
 
伴氏は、天皇に直接仕える伴造。
軍事的集団でもある。
その伴造を統括するのが大伴氏。
大伴金村の頃が全盛期だったが、朝鮮問題で失脚。
その後、旅人や家持が挽回するが、
藤原氏の台頭でジリ貧となり、
旅人は、神亀4年(727)12月頃大宰府長官に左遷されました。
この時、63歳。
隠居してもいい歳に九州まで行かされたのです。
そして、天平2年(730)正月、梅の花の宴を催したのです。
10月、旅人は大納言になり、
12月、ようやく任を解かれ、帰京できました。
しかし、翌年の7月亡くなりました。
67歳でした。
 
大伴氏は、この後
藤原種継事件で衰退、
大伴から伴へ改名、その他一般の貴族となったのであった。
 
Φ(*^ひ^*)Φ
 
令和、めでたい元号だが、
 
大伴旅人にとっては、
ホントにめでたかったのか?
 
考えさせられますね。
 
 
ちなみに、
何年か前に太宰府に行きました。
梅花の宴が催された大宰府政庁跡の奥の四王寺山の麓から斜面を登り、
百名城の大野城跡を目指したが
危うく転落しそうになりました
 
結局、大野城の百間石垣を見られなかった。
 
いつかリベンジしなければ!
 


馬《●▲●》助ヒヒーン♪