滋賀県立公文書館の行政資料
企画展示の紹介文↓
大河ドラマ『青天を衝け』の主人公渋沢栄一が注目を集めていることから、当時の銀行にも関心が集まっています。渋沢は明治5年(1872)に国立銀行条例を発布し、翌6年太政官を退官して第一国立銀行を設立しました。滋賀県内でもこうした気運を受け、多くの銀行が登場してきました。県下に本店を置く最初の銀行である第二十一国立銀行(長浜)や、現在の滋賀銀行の前身の一つである第百三十三国立銀行(彦根)などはその一例です。また農村部においても、地主たちの設立による江頭農産銀行(近江八幡)や近江商人たちの設立による湖東銀行などが誕生し、県内の経済発達を支えていきました。
しかしこうした多くの中小銀行も、昭和2年(1927)の昭和金融恐慌によって引き起こされた諸銀行の休業問題(栗太銀行や近江銀行など)・取付け騒ぎなどに直面して次第に淘汰の時期を迎えることになります。
今回の展示では、最終的に滋賀銀行へと集約されるまでの、県内における銀行黎明期の時代をたどっていきます。
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コロナのために最近、大津市や博物館を訪問する機会が減った。
困ったものですわ
◆行政文書紹介◆
↑解体され始めた彦根城を明治天皇が保存するように滋賀県令(知事)に要請した文書。
↑旧街道歩きにとって、道標と一里塚とともに明治天皇の行幸の足跡の顕彰碑は貴重な手がかりとなる。
この絵図を見ると、北国街道は柳瀬から疋田を経て国境を越えた、とわかる。
実際には逆で、越前敦賀→疋田から峠を越えて余呉町柳瀬へ入られたそうです。
当時、越前国敦賀郡及び若狭国は滋賀県の管轄で、滋賀県は日本海に面する県だったのです。
なお、この柳瀬の峠越えのすぐそばに柴田勝家の本陣となった百名城の玄蕃尾城があります。
柳瀬から玄蕃尾城へ向かう途中の道に電柱の痕跡が残されてる。
↑天皇は東海道を三重県へ向かう予定だったが三重県で疫病が流行っていたために中山道を進むことにしたという。
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行政の公文書は貴重な歴史資料です。
国の官僚は、黒塗りしないで忠実にすべての行政文書を残し、誰でも閲覧できるようにしてほしいものですな
馬《●▲●》助ヒヒーン♪