【伊予国遠征2】河後森城1、永昌寺~古城

河後森城、「かごもり」と読む。

伊予と土佐の国境にある。だから、高知県からJR予土線でのアクセスもあり、です。

中世の巨大山城で愛媛県最大級と言われてる。

最大、じゃなくて最大級…

最初の城主は渡辺氏で鎌倉時代に入城したとされる。

国境のため土佐一条氏と長宗我部氏の戦闘の舞台となり、長宗我部氏が支配下となるが、秀吉の四国平定後は、小早川氏→戸田氏→藤堂氏→冨田氏と城主が変遷。

江戸時代は、伊達藩の領地となり付家老の桑折氏の居城となりました。

伊達家にとって国境の河後森城は要衝だったことがわかりますね。

なお、藤堂氏時代に天守が板島城(宇和島城)の月見櫓として移された、という説があります。


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松丸駅からパンフの徒歩ルートに従って山へ向かいました


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芝不器男という俳人の出身地で、いたるところに石碑、句碑があります。


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なお、芝氏は最初の城主渡辺氏の重臣だったが、戦国時代に渡辺氏を謀略で追い出し新城主となり一条氏や長宗我部氏の間をうまく立ち回った。

しかし、秀吉時代に追放されてしまった。

芝不器男はこの芝氏の子孫かも?ね。


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旧松丸街道の宿場として栄え、趣のある建物が残されてます。


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坂本龍馬が脱藩した時、土佐からこの松丸街道を通って伊予国へ抜けたそうです。


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尾西小学校の横を通り


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「永昌寺」へ。


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山上の河後森城は詰城で、城主の普段の居館はこの永昌寺だったそうです。


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境内には不器男の句碑と、


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城跡碑あります。


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車の場合、北の駐車場から登れるが、我が輩は永昌寺登山口から登りました


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10時05分、



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東第二曲輪と東第三曲輪の間に出ました。

「東2」の右上が主郭になる。

登山口から寺の登山口から7分ほどです

 

主郭は後回しにして、まずは東曲輪群を探索します。

東3から東4へは一段下がる

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右手の下は犬走通路かな?

そして、

東曲輪群と古城群の間の堀切が見えてきました
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犬走通路へ降ります

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曲輪の間の堀切へ


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門が復元されてます。

犬走から堀切へは通路として利用されたようで、門から旧松丸街道及び広見川方面への大手もしくは搦手の登城道があったかな?と想像できます。

堀の深さは3m、幅は4~7m

城内では最大の堀切です。

発掘調査で掘立柱跡が見つかったのでそれをもとに門が復元された。

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↑堀切・門の向こうの下が旧松丸街道、広見川


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門の解説図があるが、読みにくい。

地元の小学生の手製の図は好感度大!

気持ちが嬉しいです。

 

堀切を越えて
本丸の下の段曲輪「古城第二曲輪」から階段を登り

【古城1、本丸】
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古城には、番小屋や櫓があった

配置図
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↑松野西小学校生徒の作品


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西側(街道側)に「石打棚」があった。

初耳の用語です


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板塀を使った防御壁
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柱跡などからの想定図です

色々と想像をかきたてられますな


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麓を見る。

眺望良し。

古城という名前から察するに鎌倉時代から戦国時代にかけての本来の城跡のメインはここだったのだろうね。

ここまで見てきて気づいたのは平坦な削平地ばかりで竪堀も土塁も見当たらない。

これが伊予国の古い城のあり方なのかな?

ちょっと物足りないような…

 

本丸の東の端から下をのぞく
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段曲輪、堀切が見える

道が無く恐いけど、なんとか降りてみた


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すぐに土橋、堀切
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堀切は短く薄い、竪堀として落ちてない

向こうに古城4と3が見えます

 


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古城4は古城3の下の段曲輪

 


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古城3は細長い曲輪で東尾根に伸びる


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先端近くまで進んだが下草多く
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引き返して

堀切・門へ戻りました

 

 

 

この後、新城、本郭へ向かいます

 

次回へ続く…

 

馬《●▲●》助ヒヒーン♪