【勝龍寺城、山崎合戦】

勝龍寺城跡】長岡京市
2019年6月01日(土)
 
京都府、JR長岡京駅前のバンビオにおいて、
大河ドラマ記念シンポジウムがあり、参加した。


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光秀関連ということで、会場は満員。
定員の300人を超えたかも?
 
基調講演は、
『地形から見る光秀・藤孝
勝龍寺城と山崎合戦の秘密―』
大阪市立大学の仁木宏さん。
 
その内容は、
 
勝龍寺城に関して】
◇1560年頃、三好長慶方が勝龍寺城を築城
細川藤孝が大規模改造。
織田権力の技術で築造した。
安土城よりも先行。
◇現在の勝龍寺城跡、沼田丸、神足神社、勝龍寺集落をふくむ惣構の城下町だった。


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惣構え、と聞いてびっくりポンでした。
◇立地としては、小畑川と犬川の合流点。
舌状台地の先端部で、
台地の上ではなくて、平地に築かれた
 
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【山崎・勝龍寺城合戦】
●天下分け目の天王寺合戦という言い方は、江戸時代の軍記物の創作。
●小泉川を挟んで光秀軍と秀吉軍が対峙した。
しかし、具体的史料がない。
●光秀の本陣は「おんぼう(御塚)」、
ここに5000の兵が集結した。
信用性が低い。
事実とは言えない
◯確かな第1級史料によると、
山崎と勝龍寺城の間が主戦場
◯光秀は退却して勝龍寺城に入るが、やがて退出した
 
◇ある程度、確かな史料によると、
街道沿いに高山・中川・堀が山崎に陣取り、光秀軍が山崎を攻める
山手左翼を羽柴秀長、黒田、
南手右翼を池田、浅野、加藤、
3つの流れで攻撃し、光秀軍を攻撃した。
 
なので、
★合戦は小泉川を挟んで行われたのではない。
★光秀の本陣は、勝龍寺城の南方か?
天王寺合戦、山崎合戦という呼び方は間違い。
 
天下分け目の
『山崎・勝龍寺城合戦』
と呼ぶべきである。


神足神社付近の土塁、堀遺構
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勝龍寺城公園
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大手
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北側の中央の橋は、本来無かった
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公園として整備された時につくられたようです。

嘘の橋や!

 

北門橋を見る
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搦手の橋

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枡形の北門
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右に見えるのは発掘で発見された石仏群

山崎合戦に破れた明智光秀は、北門から逃走したそうです。


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沼田丸と結んでた通路の階段
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土塁を分断させて造られた


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↑隣の沼田丸との間の堀↓f:id:umahide:20190612073604j:image

 

沼田丸
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単なる広場


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明智光秀の幟が多い

勝龍寺城は、まるで光秀の城だったような印象を与えかねない…

 

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最近、ドコモの光通信遅い!

スピードテストしたらドコモのLTEのほうが早かった…

馬《●▲●》助ヒヒーン♪